デル、HMD「Dell Visor」&コントローラーのセットを先行予約開始 – ASCII.jp

ついにWindows Mixed Realityヘッドセットが年内に発売

2017年10月17日 15時00分更新

文● 行正和義 編集●ASCII

「Dell Visor with Controllers」

 デルは10月17日、HMD「Dell Visor」と専用コントローラーをセットにした「Dell Visor with Controllers」の先行予約を開始した。発売は12月9日。

 Dell Visor with Controllersは、Windows Mixed RealityプラットフォームによるヘッドセットDell Visorと専用コントローラーのセット。大手量販店および各社ECサイトにて先行予約が行なわれている。

 店舗およびECサイトは、ビックカメラ・ビックカメラ.COM、コジマ・コジマネットソフマップ・ソフマップドットコム、、ヤマダ電機・ベスト電器・マツヤデンキ・ツクモ・ヤマダウェブコム、ヨドバシカメラ・ヨドバシ.com、Amazon.co.jp。 

 価格はオープンプライスで各店舗およびでECサイトを確認のこと。

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日本ブランドが多数受賞=WBF〔BW〕:時事ドットコム – 時事通信

 【ビジネスワイヤ】世界的非営利組織のワールド・ブランディング・フォーラム(WBF)は、ケンジントン宮殿で開かれた第4回ワールド・ブランディング・アワーズで32カ国245個のブランドが賞を獲得したと発表した。グローバル賞には日本のヤクルトなど、リージョナル賞には、味の素、伊勢丹、キッコーマン、ユニクロなど、ナショナル賞には、全日本空輸、ベスト電器、三菱東京UFJ銀行、ニトリ、セイコー、サントリーなどが選ばれた。
 【注】この記事はビジネスワイヤ提供。英語原文はwww.businesswire.comへ。 (2017/10/17-08:24)

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日本ブランドが多数受賞=WBF〔BW〕 – 時事通信

 【ビジネスワイヤ】世界的非営利組織のワールド・ブランディング・フォーラム(WBF)は、ケンジントン宮殿で開かれた第4回ワールド・ブランディング・アワーズで32カ国245個のブランドが賞を獲得したと発表した。グローバル賞には日本のヤクルトなど、リージョナル賞には、味の素、伊勢丹、キッコーマン、ユニクロなど、ナショナル賞には、全日本空輸、ベスト電器、三菱東京UFJ銀行、ニトリ、セイコー、サントリーなどが選ばれた。
 【注】この記事はビジネスワイヤ提供。英語原文はwww.businesswire.comへ。 (2017/10/17-08:24)

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日本のブランドがケンジントン宮殿で行われた2017年ワールド … – 時事通信

Oct. 16, 2017 06:56 UTC

ロンドン–(BUSINESS WIRE)– (ビジネスワイヤ) — 昨日、ケンジントン宮殿のメインエントランスとオランジェリーで栄誉ある第4回ワールド・ブランディング・アワーズの豪華な授賞式が開催され、32カ国の245個のブランドが「ブランド・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。

グローバル賞は、アップル、北京同仁堂、BMW、カルティエ、クラブメッド、コカ・コーラ、フェイスブック、グーグル、レゴ、ロレアル、ルイ・ヴィトン、マクドナルド、ネスカフェ、ナイキ、オーラルB、パンパース、ロレックス、サムスン、シュワルツコフ、スターバックス、アンブロ、ビザ、ヤクルトが受賞しました。リージョナル賞は、味の素、ジョルダーノ、インドミー、伊勢丹、キッコーマン、MTN、RAKセラミックス、ササ、シャングリ・ラ、ユニクロ、ザラなどが受賞しました。

ナショナル賞を受賞したその他の日本ブランドには、全日空(ANA、航空会社)、ベスト電器(小売 – 家電)、三菱東京UFJ銀行(MUFG、銀行)、ナチュラルアクアジェルCure(健康&美容 – スキンケア)、ニトリ(小売 – 家具)、ポカリスエット(飲料 – スポーツドリンク)、セイコー(腕時計)、すき家(レストランチェーン)、サントリー(スピリッツ – ウィスキー)が挙げられています。このイベントには、在ロンドン日本国大使館の赤松秀一経済公使も出席しました。

最高のグローバルブランドと見なされる受賞ブランドは、ブランド価値、消費者市場調査、一般オンライン投票の3つの流れで独自に評価されます。採点過程の70パーセントは消費者投票によるものです。どのブランドも、それぞれの部門で「ブランド・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたブランドです。

ワールド・ブランディング・フォーラムのリチャード・ロウルズ会長は、次のように述べています。「この賞は、世界の最高レベルのブランドの業績を表彰するものです。受賞した245個のブランドはすべて、そのブランディング競争でトップに立っていることを示しました。非常に多くのブランドが競い合う中で、それぞれのカテゴリーで勝利することはブランドにとって難しいことです。」

ワールド・ブランディング・フォーラムのピーター・ペック最高経営責任者(CEO)は、次のように述べています。「今年もキャンペーンが成功し、賞への参加ブランドが増加しました。世界の消費者13万5000人以上が、35カ国の3000個以上のブランドに投票しました。すべてのカテゴリーで賞が贈られたわけではなく、一部の国では資格を持つブランドの数が不十分でした。」

この賞は、ブランディング業界ならびに消費者のためにブランディングの基準を高めることを目指す世界的非営利団体であるワールド・ブランディング・フォーラムが主催しています。当フォーラムは、さまざまな教育プログラムを企画・後援し、一流大学や美術館と共同運営しています。また当フォーラムは、ウェブサイトでブランディング・ニュースを配信しており、世界の500万人以上が閲覧しています。

このイベントでは、スカイスポーツのデビッド・クロフト氏が司会を務めました。詳細および受賞ブランドの全リストは、awards.brandingforum.orgをご覧ください。

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ワールド・ブランディング・フォーラムについて

ワールド・ブランディング・フォーラム(WBF)は世界的な登録非営利組織です。当組織は、業界ならびに消費者のためにブランディングの基準を高めることを目指して活動しています。WBFは、リサーチ、開発、教育、表彰、ネットワーキング、アウトリーチなど幅広いプログラムを企画・運営し、サポートしています。詳細はbrandingforum.orgをご覧ください。

ワールド・ブランディング・アワーズについて

ワールド・ブランディング・アワーズは、登録非営利組織であるワールド・ブランディング・フォーラムの主要な賞です。この賞は、世界の最も優れたいくつかのブランドの業績を表彰するものです。この賞は3つの主要な層から構成されています。グローバル賞は世界的なブランドに、リージョナル賞は地理的地域を対象とするブランドに、ナショナル賞は現地国でよく知られたブランドに贈られます。詳細はhttps://awards.brandingforum.orgをご覧ください。

本記者発表文の公式バージョンはオリジナル言語版です。翻訳言語版は、読者の便宜を図る目的で提供されたものであり、法的効力を持ちません。翻訳言語版を資料としてご利用になる際には、法的効力を有する唯一のバージョンであるオリジナル言語版と照らし合わせて頂くようお願い致します。

和歌山の50回大会史 海草中の嶋、不滅の大記録 – 朝日新聞

■和中全盛の伝統追って

 〈反骨の野球〉 海辺まで迫る紀伊の山なみ。――明るいが、きびしい風土――。和歌山の野球はこうした環境に生れて、育った。

 明治の末――。苦境のなかで野球に打込んだ少年、出来(でき)助三郎(故人・元県議)。和歌山中(現桐蔭高)野球部揺籃(ようらん)期の遊撃手。五年のとき野球に反対する校長排斥のストライキで放校された。だが、「紀州には全国に誇るものがない。よし、日本一の野球チームを作ってやろう」と発奮した初心をつらぬく。ノックの雨……。後輩たちは砂之丸グラウンドに立つ彼の姿を見ただけでふるえあがった。こうして和中全盛時代の基礎をかためた。

 大正の末――。和中の厚い壁に体当りした男。丸山直広(故人・医師)海草中(現同陽高)の一期生。「何年たっても和中には勝てないだろうに……」と白眼視されながら選手の先頭に立つ。二出川延明(元パ・リーグ審判長)ら明大系の選手たちを招き、血のにじむ練習を続けた。昭和4年、和中の15連勝をはばみ、悲願の甲子園へ初出場。決勝まで進んで、のちの海草中黄金時代の第一歩とした。戦後は県野球協会長。審判部をつくり、野球王国の復活につくした。タイプはちがうが、出来、丸山ともに反骨の野球を率先した人であった。

 〈独走の和中〉 鍛え抜かれた和中は夏の甲子園大会に第1回から連続出場。7、8回大会には連続優勝の偉業をたてた。市内はわきかえり、和中に刺激され、和歌山高女などに日本初の女子野球チームが誕生したくらい。

 有名な選手をひろうと――。小笠原道生(故人・東大)1回大会の左翼手。文部省体育課長となり、野球統制令をつくった。北島好次(阪大)7回大会の優勝投手。アメリカから原書を取寄せ、ドロップの投げ方をあみ出す。ボールをメスに持ちかえ、いまは神戸の川崎病院長。64歳。井口新次郎(早大)。2連勝の立役者、投打に活躍、早大時代は日本の代表的な打者。左腕からの剛速球とドロップで、一躍名声をあげた小川正太郎(早大)は選抜4回大会に優勝、初のアメリカ遠征にも参加して、早大のエースとなる。元社会人野球の常任理事。

 当時、和中の強さは抜群。北島は「アメリカから帰った早大と対戦して2―1で負けたが、内容はひけをとらなかった」と回想する。和中がアメリカへ遠征中、スキをみて海草中や県和歌山商が甲子園出場をねらった。しかし、和中の残留チームにも歯がたたなかった。このため大正12年は“一回戦で和中に負けたチームは、特例として復活できる”という珍規定も生れた。

 〈四校の乱立〉 この屈辱的な敗者復活の規定に歯ぎしりしたのが和歌山商や海草中。続いて海南中が名乗りをあげる。いわゆる紀北勢の全盛時代。戦時色がようやく濃くなった25回大会、海草中は嶋清一投手(明大)を擁して甲子園へ進出。見事な初優勝を飾る。嶋は5試合、いずれも完封勝ち、被安打8、奪三振57、準決勝の島田商、決勝の下関商はいずれもノーヒット・ノーランの不滅の大記録を作る。嶋自身三年連続出場でついになしとげた金字塔である。学徒出陣で海軍入り、昭和20年、仏印(ベトナム)沖の海戦で戦死した。26回大会にも前年の三塁手、真田重蔵(阪急コーチ)が投手に起用されて優勝、嶋に続いた。

 四校の乱立時代は県野球史の円熟時代でもある。和中からは、宇野光雄(元国鉄、大毎監督)。昨年、はじめて阪急を優勝に導いた西本幸雄、和商から中谷準志(阪急コーチ)。海草中から坂本文次郎(東京コーチ)。海南中から安井亀和(元南海―星林高監督)筒井敬三(故人・元東映コーチ)。粉河中から伊勢川真澄(阪急コーチ)らがプロ野球の世界にはいった。

 〈紀南勢の進出〉 戦争は県下の勢力分布図を大きくかえた。紀南勢の進出がはじまる。戦後、間もなく岩本尭(早大―大洋コーチ)の田辺中が紀北勢の一角をおびやかし、さらに嶋と同輩の古角俊郎(明大)が、郷里の勝浦に帰って新宮高・前岡勤也(旧姓井崎)投手を育てる。超高校級とさわがれて阪神入りした前岡だが中日へ移籍後も芽は出ず、プロボーラーに転向した。新宮高の躍進から野球は全県下に普及、南部(みなべ)、新興の市和歌山商、箕島高が甲子園で活躍する。

 戦後、30回大会決勝で福島(小倉高)と投げあった西村修(旧姓井沢・桐蔭高―阪神)は丸正百貨店勤務。43回大会決勝で尾崎(浪商高)とわたりあって涙をのんだ森川勝年(桐蔭高―慶大)は松下電器へ。最近では市和商から藤田平、野上俊夫が阪神入り。藤田は昨年、セ・リーグベスト9に選ばれた。(1968年4月27日掲載)

中国の科学技術 過去の日本同様パクリ体質が奏功して伸長|ニフティ … – ニフティニュース

 たとえ経済規模で抜かれても「どうせ人口が多いだけだろ。科学技術は日本のほうが上」と思っているなら、その中国観からはそろそろ卒業したほうがいい。ロケット打ち上げ成功率は94.5%に達し、日本(91.4%)を上回る。中国車を模倣品と見なす空気は世界から消え、スマートフォンの世界シェアベスト5をみると3位に華為(ファーウェイ)、4位にオッポ、5位にヴィーヴォと中国企業が3社も入っている。

 なぜ中国の科学技術はここまで伸びたのか。科学技術振興機構の元中国総合研究センター長・馬場錬成氏は「国の支援」を挙げる。

「中国は1995年から『科教興国(科学技術の振興と教育の充実で国を豊かにする)』を最重要政策に掲げ、2014年の研究開発費は約38兆円と日本の倍もつぎ込んでいます」

 日本人から見れば中国人の“パクリ体質”は疎ましく映るが、意外なことにそれを評価する声がある。

「中国との合弁会社で中国人と一緒に働いた経験のある日本人からは『中国人は技術を真似するだけでなく、なぜそうするのかをよく学び吸収する』と感心する声をたびたび耳にします。

 高度成長期の日本も、松下電器産業(現パナソニック)が“マネシタ”と呼ばれたように他社の製品を模倣した時期がありました。真似することが一概に悪いことではない。むしろ、技術向上の一端を担っていることは事実です」(ITジャーナリストの新田ヒカル氏)

 とはいえ、もはや日本に勝ち目なしかというと、そんなことはない。日本が巻き返すには、まず「長所」を伸ばすことだと経済ジャーナリストの福田俊之氏が指摘する。

「自動車や家電の電気関係部品など、長い歴史を持つ技術は今も日本が中国より優勢で、“心臓部は日本製”という海外製品は多い。そうした技術は中国に盗まれないよう技術者を守るなどの取り組みが必要です」

 何より大事なのは、現実を受け止めて新たに学び直すことだろう。

「中国は世界中の技術者を呼び込んで技術を吸収しています。これはアメリカも欧州も同様で、自国だけで技術を発展させようとするのは日本くらい。これまではそれで成功し“ものづくり大国”の栄光を手にしましたが、中国のように失敗を恐れないチャレンジをする気持ちが必要なのではないでしょうか」(『経済界』編集局長・関慎夫氏)

 中国に見習うのが嫌なら再び自力で抜き返すしかない。

※週刊ポスト2017年10月6日号

筑波大・中野、幻の同点弾…夢散る J発足以降初の大学勢8強ならず – 中日スポーツ

筑波大−大宮 大宮に敗れ、肩を落とす筑波大の中野=カシマスタジアムで(潟沼義樹撮影)

写真

◇天皇杯<4回戦> 大宮2−0筑波大

 1回戦からJリーグ勢を撃破してきた筑波大(茨城)はJ1大宮に0−2で敗れ、1993年のJリーグ発足以降では大学勢初、同大としては81年度のベスト4以来となるベスト8入りはならなかった。筑波大は1点を追う後半、J1磐田入りが内定しているFW中野誠也(4年・磐田U−18)のシュートがゴールラインを割ったかのように見えたが審判団に認められず、幻のゴールとなった。大会2連覇を狙う鹿島は浦和に4−2で快勝した。準々決勝は10月25日に実施される。
 勝利の女神に見放されてしまった。0−1とリードされて迎えた後半28分、筑波大にとって、この日最大のビッグチャンスが訪れた。相手のミスパスがFW中野の足元に。ストライカーはこのボールを拾い、ペナルティーエリアの手前やや右寄りの位置から右足を振り抜いた。強烈な一撃はバーに当たって、ゴールラインを越えたようにも見えたが、判定はノーゴール。幻の同点弾に終わった。
 その瞬間の中野は「入っていないイメージでした」。しかし、試合後にその場面を映像で確認、「入っていたようにも見えました。今は心がモヤモヤしています」と残念がった。
 ゴールの裏には、第5の審判として追加副審が目を光らせていた。しかし、ジャッジが変わることはなかった。「(ゴールと)判断してほしかったですけど、人がやっていることなので、仕方ないです」とエース。「自分がきれいに決めていれば良かった話なんです。チームを救いたかったですし、みんなを喜ばせたかったんですけど…。自分の力のなさだと思います」と、自身を責めた。
 3回戦までに5ゴールをマークしていた得点源が結果として不発に終わると同時に、筑波大の快進撃も止まった。「負けましたけど、自分としては楽しい試合でした。今の段階で出せる自分の力は出したつもりです。もっと上に行きたかったですけど、大学のチームでもここまでやれるところを見せられて良かったです」と、充実感も漂わせた。 (関孝伸)

◆筑波大・三笘、魅せたテクニック

 筑波大MF三笘薫(2年・川崎U−18)の存在は大宮にとって脅威となった。2回戦の仙台戦で度肝を抜くドリブルシュートを決めた背番号9のテクニックはこの日も相手を慌てさせた。とはいえ、ゴールに結びつかなければ、満足することなどできない。三笘は試合後、「もっとできたと思います。動きすぎというか、力が入りすぎというか、周りをもっと見てプレーすることが必要です」と反省した。
 ▽筑波大・小井土監督「私の力不足を感じている。最後はゴール前の質の差が出た。そこを高めないといけない」
 ▽同MF戸嶋(総理大臣杯準決勝、関東大学リーグに続く敗戦に)「公式戦で3連敗となり、チームの力が問われている。ここからはい上がれることを証明したい」
 ◆筑波大の最高成績 東京文理大時代の1935年度の準優勝。
 ◆90年度に国士舘大が8強 大学勢の8強入りは参加32チームだった1990年度の国士舘大が最後。2回戦で読売クラブ(現東京V)をPK戦で破ったが、準々決勝では松下電器(現G大阪)に1−2で敗れた。
 ◆最後の大学勢Vは早大 かつての天皇杯では大学勢(OBチームなども含む)が数多く優勝しており、慶大が9回、関学大が7回、早大が4回、東大が3回、中大が2回。最後の大学勢優勝は1966年度の釜本邦茂らを擁した早大。

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【G大阪】井手口のプロ初公式戦2戦連発も…早すぎる天皇杯敗退で来季 … – スポーツ報知

 G大阪は柏に2―3で敗れ終戦。0―3から日本代表MF井手口陽介(21)のプロ初となる公式戦2試合連続ゴールなどで1点差まで詰め寄ったが、2大会ぶりの優勝を逃し、4年連続のアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)出場も黄信号がともった。

 早すぎる終戦を迎えた。試合終了の瞬間、G大阪の選手はうつむき、サポーターのブーイングを浴びた。松下電器時代の1990年度に1度、Jリーグ発足後も2008、09、14、15年度と4度の優勝を誇る名門が、4大会ぶりにベスト8にすら進めなかった。7日に今季限りでの退任が発表されてから3試合連続未勝利となった長谷川健太監督(51)は「本当に残念でならない」と沈痛な表情を浮かべた。

 DFファビオ(28)が右ハムストリング肉離れ、FWファン・ウィジョ(25)が登録の関係で準々決勝以降しか出場できないなか、日本代表GK東口らのミスもあって後半7分までに3失点した。同15分にFW長沢が公式戦2試合連続ゴール、同36分にMF井手口が頭で決めて1点差まで追い上げたが、8月のリーグ戦に続きホームで柏に屈した。井手口は自身初の2戦連発にも「前半で点を取れていれば流れが変わっていたと思う」と肩を落とした。MF遠藤も「自滅に近い。1つの大会が終わって非常に悔しい」と唇をかんだ。

 天皇杯優勝チームは来季のACL出場権を獲得できるが、V逸で可能性はなくなった。残り8試合のJ1では、ACL出場権内の3位・柏と勝ち点10差(首位の鹿島とは同18差)。4年連続のACL出場も危機的な状況だ。2季連続の無冠を阻止するためには、現実的には4強入りしているルヴァン杯しかない。「何とか意地を見せたい」と指揮官。監督の花道を飾るためにも、G大阪のプライドを見せてもらいたい。(伊井 亮一)

自分がやりたいことと、 周りが必要としていることは別と知る – ダイヤモンド・オンライン

引退してもなお、その人気が衰えるどころか、さらに増している森本稀哲氏。札幌でのサイン会に続き、今週の東京でのトークショー&サイン会は満員御礼!ビジネスパーソン必読の森本稀哲氏の処女作『気にしない。どんな逆境にも負けない心を強くする習慣』では、少年時代から北海道日本ハムファイターズ、横浜DeNAベイスターズ、埼玉西武ライオンズで迎えた引退試合まで、40にも及ぶエピソードを収録。著者自身が抱えた問題から何を学び、どのように解決してきたのか――今日から確実に超ポジティブになれます!読後、前向きになれるコンテンツを本書から抜粋し、紹介します。

本当は、外野なんてやりたくなかった

森本稀哲(もりもと・ひちょり)

1981年1月31日生まれ。東京都出身。小学1年生のときに、汎発性円形脱毛症で髪を失い、人の目を気にする少年時代を過ごす。そんなとき、友だちの誘いをきっかけに野球を始める。野球でよかったのは「帽子をかぶっていられるから」という思いがあるなか、いいプレーをすると周囲から認められ笑われなくなり、徐々に頭角を現す。

帝京高校の主将として第80回全国高校野球選手権大会に出場を果たし、1999年、ドラフト4位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。2006年から2008年まで3年連続ゴールデングラブ賞を受賞し、2007年、ベストナインに選ばれる。かつてはコンプレックスだった頭を使うコスプレパフォーマンスや粘り強いプレースタイルなどで話題を呼び、一躍人気者に。その後、2011年、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)へ移籍。2014年、埼玉西武ライオンズへテスト入団。2015年9月、17年間にわたるプロ野球人生を終え、現役を引退。

通算成績は、1272試合、3497打数904安打、33本塁打、521得点、267打点、106盗塁、打率.259。2006年、2007年はパ・リーグ最多得点。

現在、野球解説やコメンテーターとしてのテレビ・ラジオ出演のほか、大学での講義や講演活動も行っている。
森本稀哲twitter @onifukksencho

 プロ野球選手としての僕を知る人の多くは、「森本といえば外野」というイメージを持っているのではないでしょうか。

 1998年のドラフト会議で、日本ハムは佐賀学園高校の實松一成を1位指名で獲得。2位は松下電器産業(当時)の建山義紀、3位はNTT関東の立石尚行、僕は4位指名を受けて日本ハムに内野手として入団しました。

 僕は内野手としてレギュラーを取る気満々でした。そのまま自分を押し通して、ポジション争いを続ける道もあったでしょう。でも、周りから「外野やれば?」と声をかけてもらううちに、いつの間にか「外野の森本」になっていったのです。

 しかし、すんなりと内野から外野に転向したわけではありません。

 僕にとってプロ入り2年目となった2000年、日本ハムに内野のレギュラー候補として田中賢介が入団してきました。キャンプでは、僕と賢介が2軍のショート争いをし、最終的に僕がサードにはじき出されるかたちでチームづくりが進むことになりました。

 やがて、東日本に拠点を持つ6球団(当時)の2軍チームが参加するイースタンリーグが開幕すると、僕は外野行きを命じられました。日本ハム2軍の外野手が負傷していたために「とりあえず森本、行っとけ」と、佐野嘉幸監督から声がかかったんです。

 外野に行ってから連日ナイスプレーを連発。ただ、自分のなかではたまたまという思いで、「外野やってるけど、俺、内野手だから」と、内野手への気持ちが強かった。そんな感じだったので、僕は周りからは「面倒くさいヤツだな」と思われていたと思います。

 ほどなくして、外野手がケガから復帰し、僕はサードに戻れたのですが、1軍はオールスター期間で、2軍で練習していた7月に、1軍からこんな声が聞こえてきました。

「外野手を1軍に上げてくれ。2軍に元気な外野手はいないか?」

 そう言ってきたのは、就任1年目の大島康徳監督でした。

「外野手じゃないんですけど、元気なやつならいます!」

 推薦されたのは僕でした。

「1軍デビューはすごくうれしいけど、外野手じゃないんだけどな」と思いましたが、コーチたちから「稀哲、がんばってこいよ」と背中を押され、僕は複雑な心境で1軍デビューを果たしました。

 その後も1軍から外野で呼ばれましたが、気持ちが切り替わることはありませんでした。シーズン終盤、ニューヨーク・ヤンキースのキャンプに単身参加したときも内野手登録でしたし、帰国後に改めて日本ハムに選手登録するときも内野手登録を貫きました。

「森本、お前外野に転向しろ」

 チーム内には、そんなふうにハッキリと言ってくるコーチもいました。

「絶対にイヤです」

 それが僕の答えでした。

 当時の僕は本当に生意気でした。なんの根拠もないのに、「今は下積みだけど、何年かしたら1軍のショートになるのは俺だから」と思っていたんです。

 プロ入り3年目の2001年も、1軍から呼ばれるときは決まって外野でした。

 そんなにも「外野で」と声がかかるということは、「お前、外野のほうが向いてるよ」「外野だったら1軍でやれるよ」と言われているも同然です。ところが僕は、しばらくそれに気づかなかったんです。どれだけ勘が鈍いのやら……。

 その後、2006年から2008年にかけて、外野手として3年連続でゴールデングラブ賞を受賞できたのですから、僕に外野転向をすすめたコーチ陣の見る目は確かだったと言わざるを得ません。同時に、コーチたちに対して「また外野?」とツッパっていた僕が、いかに愚かだったかも浮き彫りになりました。

 今なら声を大にして言えます、「外野手に転向して、よかった!」と。

 2014年、僕はさらなる転向の機会を迎えます。

 前年まで所属していたベイスターズから西武に移籍し、伊原春樹監督から「ファーストできるか」と聞かれたのです。このときは、「髪の毛なんてもういいや、これが帝京の森本だ!」という腹を括ったときと同じように、もう「外野で勝負しよう」と思っていましたから「え、内野?」と。しかもファーストは未経験のポジションだったので戸惑いもありました。

「監督、ファーストやったことないです」

「そうか……、じゃあ練習しろ」

 日本ハム時代に、内野から外野に転向して成功した経験があったので、僕は覚悟を決めてファーストの練習を始めました。監督がファーストの守備ができるかを聞いてきたということは、そのほうが使い勝手がいいからに他なりません。この年、僕は1軍の試合にファーストでは99試合中49試合、出場しました。ファーストをやっていなかったら、出場数はもっと少なかったでしょう。

 いつもと違う役割を任されたら、それは成長のチャンスです。僕は、内野、外野、また内野と転向を繰り返しましたが、そのたびに自分の選手としての可能性が広がるのを感じました。「これ以外やりたくない」と、自分を押し通す気持ちの強さも悪くありませんが、周りから違う役割を求められているなら、思いきってやってみたほうがいいでしょう。

 自分がやりたいことと、周りが求めていることは違うのだと知って、受け入れることができたら、人はひと回り大きくなれます。

「信念を貫き通す」ことと、「チームに必要とされていることをやる」というバランスがとても大事なことがわかります。

 このときの気持ちは、僕が大事にしている座右の銘に繋がっていくことになります。

広島の選手たちの“原点” 由宇練習場の存在意義の大きさ – BIGLOBEニュース


広島の2軍練習場を訪れて感じたこと

 住居隣接がスポーツ界でも当然のようになってきた。選手寮(クラブラブハウス)のすぐ近くに練習場があり、やる気さえあれば24時間トレーニングできる環境。福岡県筑後市にできたHAWKSベースボールパーク筑後や、神奈川県のジャイアンツ球場、中日のナゴヤ球場やオリックスの舞洲。そんな中で球界の流れに逆行しているように見えるのが広島カープである。

 カープの2軍練習場は山口県岩国市由宇町にある。現在も選手寮や室内練習場などは広島県廿日市市(旧大野町)に存在するのに、である。だから練習や試合日、選手など関係者はここからバスで由宇まで移動する。

 もともとカープは同じ広島県福山市内に2軍本拠地を持っていた。しかし大野からの便や施設面などを考慮。いくつかの候補地から選定し93年から現在の施設を使用するようになった。

 その由宇練習場は広島から山陽道に乗れば車で約1時間弱、電車でも在来線で約1時間(ただしJR由宇駅からバスなどのアクセスが悪いのだが……)。立地条件としては恵まれている方である。とはいえ、山に囲まれた町並みで駅前も含め、閑散とした印象は拭えない。

「初めて来たんですか? スゴい場所じゃないですか? 本当に練習場以外に何もないんですよ(笑)。今はここと広島の往復ですから……」

 出迎えてくれた背番号11の福井優也。今シーズン1軍での先発もあったが、多くの時間、2軍での暮らしが続いている。

 娯楽が多くない地方都市、2軍とはいえ、プロ球団が試合を行ってくれることは町にとって大きい。カープのリクエストに応え、由宇町もできるだけのサポートを行っている。ハード面ではフィールドやロッカーなど球場施設の改修。そしてソフト面ではファンへの『おもてなし』である。

 ネット裏高台には、かつてのビジターチームのロッカーが改修されたショップがある。そこではカープ由宇協力会の方々が接客をしていた。

「いろいろ変わり始めてます。地元名産の神代わかめを使用した『手抜きうどん』(『さぬきうどん』に対抗したシャレ)などは名物になりつつあります。16年に優勝した時も商店街など、いつもとは比べられないほど人が集まった。今日も仕入れた弁当20個が完売ですよ(笑)」

 事務局長の出雲忠さんはのどかな話をしてくれた。

 とはいえ、カープの2軍組織である。一番の目標はチーム強化であり、実際に結果につながる大事なセクション。球界の流れに逆行しているような由宇練習場のように感じるのだが……。実際にチームを扱う立場の水本勝己・2軍監督(※1)に聞いた。

「選手にはプラスかマイナスしかない」「戦える選手でないと使わない」

「まず練習するしかない環境というのが最も大事だと思う。プロに入って来る選手は実力もあるし、身体の強さも持ち合わせている。それを磨くことができるかにかかっている。体力はあるのだから、多少のハードトレーニングをさせてもしっかりケアをすれば、壊れることはない。それができるかどうか……。選手というのはプラスかマイナスしかないのだから」

 水本・2軍監督はテスト生として89年のドラフト外で入団も2年で引退。長期に渡りブルペン捕手をつとめ11年に3軍統括コーチに就任した。そして14年オフに2軍監督代行、16年より2軍監督に就任した、いわば生粋の叩き上げだ。

「僕自身の現役が短かった。やっぱり悔しい部分もあるし、その後の裏方生活でもいろいろな選手を見て来た。だからこそやりたいこと、言いたいこともある。『伸びるのに人間性も必要』と言われる。必要ないと思うかもしれないですけど、僕の経験上、そういう選手はやっぱり伸びる」

 一人の選手の名が挙がった。背番号10、岩本貴裕(※2)。10年に1軍で2桁本塁打を放ち一時レギュラーを獲得しつつも、その後、数年は不調。そして17年、完全復活を果し、大事なところで貴重な働きを見せている。

「行けると思ったけど、少し、調子に乗ったかな。だからその時にはいろいろと話させてもらった。厳しいこともたくさん言った。本当に怒鳴り上げたりもしました。でも彼はもう一度、頑張ってくれた」

「鈴木誠也が欠場中の中、よくカバーしている。でもまだまだ、あんなものではない。年齢だって31歳と油が乗り始める時期。技術的にも進歩できるし、彼も身体が強いから」

 育成と強化。特にファームではこの2つの並立が難しいと言われる。だがカープの場合、続々と20歳代前半の選手が1軍出場を果すとともに、2軍も中日と首位を争う戦いを繰り広げている。

「最も大事なことは1軍が強くなること。そのために多くの選手の才能を伸ばして戦力を作ることが我々の仕事です。だから重要なことは、下(=2軍)でも当然のように戦えないといけない。それはベテランでも高卒の若い選手でも変わらない。まずは下で戦力として結果を残す。それも飛び抜けたくらいであって欲しい」

「だから戦えない選手は下でも使いません。今、現在、試合へ出て戦える選手を使って勝つ。それが2軍でも重要だと思う。緊迫した試合に勝つことによって技術や経験など、様々なことを覚えることもできる。普段の練習はもちろんですが、加えて実戦。これらにいかに真剣に取り組むかで選手の伸び方が大きく変わって来ると思う」

「よく故障明けの調整登板などがありますけど、ああいうのも基本はやりたくない。チーム予算の中で保有可能な選手数があって、規則上ファーム組織も1つしかないから、それはしょうがない。だから3軍の扱いなども他チームさんとカープは大きく異なって来る。3軍でノンビリ育成している時間も余裕もない。戦える選手ならばシーズン中でも契約する。使えるなら即、1軍に上げる。でもそうでなければ……。もちろん球団の判断もありますが、そこはシビアな部分だと考えています」

由宇から這い上がろうとする思い、「大野からここへ向かう時にそう感じます」

 この日、胃がん手術を終えて復帰を目指す赤松真人(※3)が術後、久しぶりの屋外練習ということで由宇練習場を訪れていた。

「赤松に関しては現状はリハビリ中ですが、その後がやはり大事。でもどういうレベルの選手かはわかっている。どこまで戻せるか、そして越えられるか。ハードルは高いけど、心から応援しています。実際、今日、外に出てボールを握って本当に嬉しそうですよね」

 いろいろな選手が混在する組織の中、水本にはやるべきことがたくさんある。

「ファームには答えがない。でも1つ確かなのは、カープが強くなることが最も大事なこと。ここ十何年やって来たことがようやく形になり始めている。ここで萎んでしまっては、少し前の低迷期に戻ってしまう。強くなり始めてファンも増えている。順調に進み始めた今こそ、原点を忘れてはダメ」

 選手にとって由宇練習場の存在位置というのは、絶好の場所なのかもしれない。最新の機材や設備が揃った住居隣接の練習、生活環境。いつも多くのファンが足を運び、サインや写真を求められる施設は『恵まれた環境』とも言える。しかしプロとして重要なことは、1軍のフィールドで戦力になること。その原点がここ=由宇にあるのではないだろうか。言ってみれば真逆のような環境であるからこそだ。

「去年の優勝、そして今年も。やっぱりチームの一員としては嬉しいですけど、どこか複雑でもある。自分がそこにいることができていないから……。悔しい気持ちになります。若手のいい投手もたくさん出て来て、彼らとも一緒にやっているのでぜひ頑張って欲しい。でも負けたくない気持ちも強い。やっぱり由宇にいてはダメなんですよ。大野からここへ向かう時にそう感じます」

 夏の終わりを感じさせる少し涼しい由宇でも、福井は大粒の汗を流しながら語ってくれた。

 平日昼間のデイゲームだが、500人ほどの観客が由宇には集まった。決して多くはない数字ではあるが、この熱烈なファンたちもカープ躍進をサポートしている。また芝生席に椅子やテントを持ち込み、思い思いに試合を楽しんでいる。

「今日は休みを取りました。遅めの夏休みです(笑)。ここはノンビリできる。野外フェスみたいな感じで昼からビール飲みながら寝転んで試合見るのが楽しい。今日は大瀬良大地(※2)も下にいるし、他にも良い選手は多いですよ」

 確かに、試合を見ていると若手で「これは……」と思わせる素材も多く見受けた。鈴木誠也(※4)や西川龍馬(※5)が這い上がって来る姿も見て来たのだろう。そうすれば思い入れや感情移入も強くなり、より強く応援したくなる。その周囲の姿勢がさらに選手の後押しをする。

 山口にある少し時代とかけ離れた由宇練習場。ここがカープ躍進の一端を担っているというのは大袈裟であろうか。

※1:#89水本勝己
捕手、89年ドラフト外で社会人・松下電器より入団。1軍出場なし。

※2:#10岩本貴裕
左投左打。08年ドラフト1位で亜細亜大より入団。強肩強打で内外野とも守れる器用さも持つ。

※3:#38赤松真人
右投右打。04年ドラフト6位で立命大より阪神入団、08年カープ移籍。俊足強肩強打で頼れる外野のリーダー。

※4:#51鈴木誠也
右投右打。12年ドラフト2位で二松学舎大付高より入団。16年ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。4番を任され、打線を牽引したが、現在は負傷離脱。

※5:#63西川龍馬
右投左打。15年ドラフト5位で社会人・王子製紙より入団。天才と呼ばれる技術と勝負強さを誇る左打者。

◇山岡則夫
1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年に Innings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして 様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿してい る。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選 手たち」(株式会社舵社)。 Ballpark Time!オフィシャルページ (http://www.ballparktime.com)にて取材日記を定期的に更新中。(山岡則夫 / Norio Yamaoka)

山岡則夫 プロフィール

 1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社舵社)。Ballpark Time!オフィシャルページ(http://www.ballparktime.com)にて取材日記を定期的に更新中。